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December 15, 2006

菊と刀

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Skype で中国の若い人と話をしていたら、日本人の習慣(外国と違っている習慣)を教えてください、と言う質問を受けた。その場はまとまりのない適当なことを答えて終わったが、このことについて、もっとしっかり調べてようと、日本人の特性をよく調べ上げてあるという ルース・ベネディクトの「菊と刀」を思い出し読んでみた。この本は、彼女がアメリカで、戦時中に日本人の思想・感情の習慣を調べ、日本文化の型を理解できるように書かれたもので、戦後1年目の1946年に出版されている。
その中で、恩、義理、人情、徳、あるいは自己訓練の仕方や子供の育て方などについて、具体的に日本人の行動や考え方を説明している。
そして、最後に日本が敗戦によって、これまでの「たが」を外され精神的に自由になったときに、どうなるかを、「菊と刀」という言葉を持ち出して次のように述べている。

・・今まで小さな鉢の中で栽培され、その花弁をひとつひとつ念入りに整えられてきた菊は、自然に帰ることの中に、純粋な喜びを見いだした。しかしながら、今日の日本人の間では、「期待はずれの」行動をし、「恥」の強制力に疑惑を抱く自由は、彼らの生活様式の微妙な均衡を覆すおそれがある。彼らは新しい局面のもとで、新しい強制力を習得せねばならないであろう。しかも変化は高価につく。新しい仮定を作り上げ、新しい道徳を樹立することは、容易なわざではない。・・・新しい時代に際会して、昔のように個人の自制の義務を要求しない生活様式を樹立する可能性をもっている。菊は針金の輪を取り除き、あのように徹底した手入れをしなくてもけっこう美しく咲き誇ることができる。
 この精神的自由の増大への過渡期に当たって、日本人は二、三の古い伝統的な徳を頼りとして、平衡を失わず、無事荒波を乗り切ることができるであろう。その一つは、彼らが、「身から出た錆」は自分で始末するという言葉で言い表わしている自己責任の態度である。この比喩は、自分の身体と刀とを同一視している。刀を帯びる人間に刀の煌々たる輝きを保つ責任があると同様に、人はおのおの自己の行為の結果に対して責任を取らなければならない。・・・自己責任ということは日本においては、自由なアメリカよりも、遥かに徹底して解釈されている。こういう日本的な意味において刀は攻撃の象徴ではなくして、理想的な、立派に自己の行為の責任を取る人間の比喩となる。
・・・
今日、日本人は西欧的な意味において、「刀を棄てる」[降伏する]ことを申し出た。ところが日本的な意味においては、日本人は依然として、ややもすれば錆を生じがちな心の中の刀を、錆びさせないようにすることに意を用いるという点に強みを持っている。彼らの道徳的語法によれば、刀は、より自由な、より平和な世界においても、なお、彼らの保存しうる象徴である。
(長谷川松治訳による)

 最近の環境とすさんだ世相をみていると、今持っているのところどころに錆びがきたせいか、整っていたの花が乱れてきたように見える。支えの針金がない今こそ、充実したが求められるのではないか。

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